昭和49年12月16日 報徳祭における御挨拶
おかげを頂きまして、報徳祭も無事に終わらせて頂きました。本当に報徳祭を御奉仕させて頂きます度に、まっ、思うのでございますけれども。はたして、お徳に報いる事の出けたお祭りであっただろうかと。はたして、お徳に報いる信心が、はたして出来ておるだろうかと。ただ、三代様、そしてまたは二代金光様の御威徳を偲ぶ。または、先覚諸氏の御信心を称える。ただ、それだけが報徳祭であってはならないと、私は思います。ね。
どこまでも、報徳祭は報徳祭でなからなければならない。それは、徳に報いるという事でございます。そこで、徳に報いるという事は、例えて申しますならば、小倉の桂先生などは大変にお神酒がお好きであった。とりわけ、あの、今日は沢山お供えがあっておりました菊正宗。奈良の(き一本?)、もうこれを熱燗で召し上がるのが大変な、お好きであったという事でございます。桂(がん?)というその、言葉があるくらいでございます。ね。
ですから、桂先生は熱いお神酒を、カン種をお供えしたら、さぞかしお喜び下さるだろうと。これなら、意図簡単ですけれどね、そんな事っちゃないと思う。俺が求めておるのは酒じゃない、熱燗じゃない。ね。言うならば、桂先生が一番願っておられた事。その一番願った、おられた事に私共が取り組ませて頂くという事。桂先生がどういうような事を私共に願い、求めておられたであろうかと。一番求めておられたもの。
それは、ご自身の体験からこのような素晴らしい信心。このように素晴らしい、有り難い信心がこの世にあっただろうかとビックリされた。御利益は新たかだし、教えは素晴らしいし。ね。迷信的な事は言わないし。もう、それこそ信心の中の信心、真の信心はこれだと分かられた。そして、この真の信心をです。ね、世界の隅々にまでも広め、そして広げて行こうという御精神。ね、世界万国にこのごひれいを輝かさんという願いを立てておられたという事でございます。
してみるとです、なら私共がそういう信心を継承させてもらい。そういう信心を頂かせてもらうという願いに立たせて頂いて。本気で、先ずは私の心の中から、私の一家。そして私の周辺にその有り難い信心を広げ、進めて行かなければならない。それが桂先生の、言うならば一番喜びであると同時に、桂先生のお喜びは、即金光大神、いわゆる四神様の喜び、教祖様の喜び、天地金乃神様のお喜びであると思わせて頂くのでございます。ね。
私は、この度の報徳祭に初めて、自分の思うままのお祝詞を作成させて頂きました。今までは、親先生が書いて下さりよった。ね。けれども、もう親先生もあのように、お呼ばれになられましたし。それで、自分の信ずるところ、自分の思うままを神様にお聞き頂きたいと願わせて頂きまして。皆さんも今日、お聞きおよび頂きました通りのような内容の、言うならば本当に私のお祝詞。言うならば、合楽のお祝詞という事になりました。ね。
もちろん、二代金光様のおかげで、道が九州に広がりました。桂松平先生を見込まれた。そして、九州の地に布教をする。九州の難儀の氏子を取り次ぎ助ける働きを、いわば神頼みになられた。ね。その御神意を報じて、九州の地にお出でになられた。それは大変な修行をなさった。ある時、善導寺の原さんが、ここで桂先生、桂先生と言うてお話を頂きますから、だいたい桂先生というお方は、どういう信心、どういう御修行をなさったお方であろうかと思わせて頂いたら、御心眼を頂いた。
その御心眼がね、あの、(おばやけ?)というね、鯨の皮です。あの、おばやけにね、熱湯をささぐ、注ぐ。かと思うと、今度は冷水を注ぐ、熱湯を注ぐ。そして、あの、おばやけが出けるのです。それを頂いて、もう(恐怖?)感激。はあ、勿体無い事であると。私共の道の先輩であるところの桂先生が、そのようにしてです。それこそ、ね、火の行、水の行をなされて。それは、ただ火の行、水の行をなさったという事じゃなくて。人間的な、言うなら油を抜いて。言うなら人間的灰汁を抜いて。ね。そして、神様へ打ち向かわれ、沢山な難儀な氏子が助かる事の為の御修行を下さったんだというお知らせを頂いた。
それは、それは、御伝記ご拝承致しますと、もうそれこそ、あられもない修行を続けておられます。寒中に、( )一枚。御結界にお座りになるでも。ね、小石を箱の、箱に敷いて、その上に座られる。寒中に水氷を、川に浸かられる。もう、気が遠くなられて、た時に、神様からこの修行だけは差し止めるとお声を頂かれるほどしの厳しい御修行をなさった。ね。私共も、やはりそういう、ね、桂先生がなさった、あの修行の真似方ぐらいさせて頂いたけれども、もうそれは遠い昔の思い出になってしまった。
合楽では、そういう荒行が差し止められた。そこで、例えば桂先生がなさったという、水の行とか火の行とかというような行がです。ね、心の上に、もちろん現し続けられた事であろうという事でございます。ね、暑い思いをする、冷たい、寒い思いをする。ね。言うならば、信行にそれを当てはめて参ります時に心の垢が取れる。心の油が抜けて行く。そこに、我ながら和賀心を奉らせて頂けれる、我ながら喜んで自分の心を奉れと仰せられるような心の状態が開けて来る。
そういう修行をなさった方なんです。ね。その、例えば印と言うか、現れと言うか。その証を立てられたのが、沢山な先生方が、いわゆるお弟子さんがお出来になられた。一心( )を捧げて、お道の上に捧げたいというような、打ち込んだ、言うならばお弟子さん方が出来られた。その第一が、福岡の吉木栄蔵先生であった。元々、お侍の出であって、沢山な、ちょうど幕末の頃の、言うならば人を危めておられた。言うなら、戦争に向けて(切られた?)。
そこで、大変難渋な病気をなさり、思い当たるところがあってです。いわば、神様にすがり、仏様にすがるというところから、言うならば、お大師様?の信仰に入られた。(しゃくじょう?)をついて、そして日本国中を(あんげ?)して回られた。それでも、助かる事が出来られなかったけれども。たまたま、小倉に日にちを、時間切っての、切っておかげを下さる神様がござるげなという話を聞いて、初めて桂先生の元にお参りになられた。
桂先生のお取次ぎを頂いて、さしも難病が助かられた。話を聞けば聞くほどに、今までの信心とは全然、信心の赴きが違う。言うならば、話を聞いて助かる道。ね。それから、一年を発心された。そして、本気でお道の信心を頂かれて、第一の枝、第一の出社として、福岡に教えの筵を敷かれたのでございます。四神金光様にその事をお届けに参られました。
金光様、福岡という所は、非常に学者の多いところと聞いております。私のような無学な者が布教致しましても、そういう者に、ね、学のある者に話をする事はなかなか至難。という御届けをなさった時に、四神様が教えられた。吉木さん、福岡には馬鹿と阿呆で道を開くのぞと教えられた。( )いらんち、学校ないらんち。ね。そういう例えば、大臣じゃろうが、大学者であろうがです。それこそ、先生、アンタの前に膝まずいて、教えをこうようになるぞと言わんばかりの事を教えられたのでございます。
はあ、馬鹿と阿呆で道を開け。さあ、それでも、なかなかお道は開けなかった。来る日も、来る日も、ただ御神前に御祈念をなさる。沢山な神仏を拝んでおられますから、祈念力はもう抜群であった。祈念力にかけては、吉木栄蔵の右に出る者はおるまいと言われるほどしの祈念力を持っておられた。けれども、誰一人としてお取次ぎを願う者がない。ね。もう、(御糖尿?)の油を買う金もないというような状態に入られた。ね、時に、やはり( )元がお侍さんですから、お侍さんらしい考えを起こされた。
このままでは、神様に対しても相済まん、人は助からん。ね。そこで、言うなら自殺を覚悟された。言うなら、腹かき切って、神様へお詫びをさせて頂こうという事になられた。材木町という所がどういう所か知りませんけれども、それこそ人気のない、それこそ材木が積み重ねてあるような場面、場所ではなかろうか。そこにお座りになってです。それこそ、短刀を腹に突き立てようとなさった時に、何処からともなく声がした。ね、死ぬのは早い。そういうお声であった。
自分が、いわば死を決心しておるけれども、心にどこか、まだ迷いがあるから、これは自分の空耳であろうかと、また実行されようとすると、また同じお声がかかった。そこで、腹を切る事を断念されて、また御広前に帰られた途端にお参りがあったと言うのです。一番初めにお参りをして来たのは、もうお腹にこんなに水が溜まっている。(ちょうまん?)と言うのでしょうか。もう、医者でも薬でも出けんと言うので、言うなら吉木先生のお取次ぎを願われた。ね。
御祈念中に、その水がどんどん出だしたと。さあ、それからは、もうそれこそ、沢山な人がおかげを頂いた。瞬く間に立派な御教会が出けたという事でございます。私も福岡に修行中の自分は。もうそれこそ、夜な夜な奥城に出らせて頂きました。ずいぶん、あの、遠いところです、福岡の教会の奥城は。けれども、やっぱりお徳というのは、もうどうにも出けない。その山をね、その何回かあの、大きな道路が出けるために、壊しかかる。
ところが、様々な、その難儀な事が起こって来るんです。そこで、このお山には大変なお徳の高い偉い人が怒ってあるという事が分かって、道を、そこだけを曲げて道が出けるというようにです、ような、その新たかな。また、お参りをさせて頂いて、もう私も夜中にお参りをさせて頂いて、もうどのくらい先生の御霊のお励ましを頂いたか分からないくらいに、おかげを頂きました。皆がよう、その奥城でおかげを頂いた。ね。
その先生がです、言うならば馬鹿と阿呆で道を開けという信心を、福岡教会の芯として御道開きがあった。及ばずながら、私共もここのところを一つ頂きたい。ね、本気で馬鹿と阿呆のけいこをさせて頂きたい。見やすいごとあるけれども、なかなか難しい。場合には、血の涙も出るような事もあるけれども、そこが、まあだ馬鹿になりきっとらん証拠だと思うて、生神金光大神様唱え続けながら、馬鹿と阿呆にならせて頂くけいこをさせて頂いたら、もうこれほど素晴らしい教えはないというほどしに、最近、私は感ずる。
先日も、私が御神前で頂きました事に、金光様の御信心の言うなら決め手、極め手というのが。ね、これ一つ、例えば馬鹿の一つ覚えのように、これ一つ分かればおかげになる、徳が受けられるというような信心はないだろうかというような事を、フッと思うたらね。あれは、アメリカの洗剤で何とかというね。何?ああ、ゼイオンドチアか何か。舌噛むごたる長い字でなかなか覚えん。ゼイオンドチアです。ゼイオンドチアを頂いたです。
あれはもう、その、あれ一つでね、お洗濯が出ける。ね、これはぬるま湯、これは熱い湯。これは水でなからなければといったような事じゃなくてです。どういう物でも、どういう温度ででもです。あの洗剤を使うと、それ一つでおかげが頂けれる、言うなら洗濯が出けるという事なんです。ね。ははあ、なら、それ一つで出けるという事はどういう事だろうか。という事になりましたら、蚊取り線香に火がついておるところを頂いた。ね。
蚊取り線香というのは、言うなら左巻きと言う。左巻きという事は、馬鹿の代名詞のように。あれは、ちっとばかり左巻きだからと、こう言うでしょう。まあ、私ごたると。ずいぶん、そげん言われて来た。あれは、左巻きだから。いや、本当にこの頃ですね、あの、私はお道の教師になって、以前なら例えば、はあ、本当もう大坪さんな気のきいちから、とても商売が上手でちゅうごたる風に言われとったんですよ。
ところが、だんだん信心させて頂くようになって、本気で馬鹿と阿呆のけいこをさせて頂くようになったらですね、もう一偏なあの、甘木の平田さんが見えられました。一番初め見られた時でしょうか。そして私を前にしてです。それは、私に対する誉め言葉です。信者さん達を前においてから、あの、客室で言われるんです。もう、おかげを頂く人は違うよち。ここの先生などっか、こう抜けたあごつして馬鹿んごつしちゃろうがち。
ね。もうほんなこて、銭数えさせたっちゃ間違うしね。とにかくテレビいっちょ、本当に見きらんもんじゃけん、やっぱ馬鹿っちゃ馬鹿です。はっはっ。ね、けれども、もうこの事を一つ。私は今日、朝の新聞をちょっと見せて頂いておりましたら、あの、日田の方に、あれは何ちゅうですかね。初めて読みました。ところに、何か将棋の事が出ておりましたよ。何か17歳か何かになる、大変、(ちょう)という、あの、名人でも挑戦するといったような将棋( )がおるそうですね。その人がね、あの、その人の事が書いてあった。この何とかという名人と対極をする訳でしょう。将棋じゃなくて、(ご?)ですかね。
その人が言うておる事です。ね、ある名人が非常にゴルフが好きだ。だから、ゴルフどんするごたるヤツには負けちゃならんと思うたと言うておりますよ。私はそれを聞いてからビックリしました。もう、この人はね、たった17だけれども、もう(ごう将棋?)他の事は何も考えないちゅうんです。まだ7段かそんくらいでしょうけれどもです。例えばね、そういう自分の命のようなものをです、他の道楽どんするごたる者には負けてはならんと思うたと。そして、名人に勝ってる。
これは、もう本当にお互い考えなければいけない事です。ね。私も本当に共鳴致しました。ね、金光様の先生でです、どんなに偉そうに言うてもです。ね、例えばそういう自分から求めて(ものみ油断?)とか、ね。例えば楽をしたい、楽をしたいというような先生なら、どげな素晴らしい先生であっても負けてはならんと思いますね。ね。もう、それこそ馬鹿の一つ覚え。もう私はただ、もう言うならば信心が命と言うけれども、私の場合は、信心は命以上なのですから。ね。だから、お芝居にも行かんのか、お御馳走も食べにも行かんのかと言うとそうじゃない。
それは、ね、どうぞ食べて下さい、どうぞ見て下さいと言や見ますよ。けれども、自分から、ね、進んで。ね、そういう道楽どもするような事ではおかげは受けられないと思います。福岡の三代の吉木先生が言うておられました。あちらは御用してございましたが、大変偉い先生でした。ね。若い時に何遍も何遍もタバコの誘惑に会ったけれども、金光様の先生をしとって、タバコどん飲むごたる事じゃおかげは受けられんと思うたと言うて、一生、私はタバコは飲まんと仰っておられR。
そういやですね、本当にお徳を受けられたという先生方が、タバコ飲んでござるてん何てんて、まだ聞いた事も見た事もない。ね。やはりね、その根性が、私は信心には必要だと思います。ね。しばらく一年ちょっとでしたでしょうけれども、福岡の教会に毎日お参りをさせて頂いて、奥城に日参のおかげを、夜な夜なお参りさせて頂いて。本当に吉木先生の御霊様のおかげで、おかげを頂きました。とりわけ、善導寺の教会の奥様のお里でもあるから、大事にして頂いて。ね。いつも、お話を致します、あの、(まなご?)さんなんかとの出会いも、やはり福岡の教会でございました。
もう、数えるならば、もう本当にどのくらい御恩恵を受けたか分かりません。なら、今でもそうです。ね、ここでは、いわゆる馬鹿と阿呆で道を開けと教祖様、あー、福岡の初代がそれを命として立て抜かれた信心を、おそらく一生涯、この事を頂き続けて、いよいよ赤抜けして行く馬鹿と阿呆になる事であろうと、自分でも思います。もちろん、だからおかげも赤抜けして来るのでございます。北京から帰らせて頂きましてから、親教会には朝晩お参りを致します。
久留米の教会には、あちらへ行った度にお参りをする。それが段々、(高じて?)参りましたから、毎日お参りをする。いつも11時頃からお参りをするんです。あそこの(つぎがわ?)という所に、仕立て屋さんがあります。大変、私ファンでしたけれども。今はそうではないですけれども、高木さんじゃなかった、何とか言ったけ、洋服屋さん、何とか言いましたね。んー、ああ、辻さんという、その御夫婦がありました。
もう私がいるともう、はあ、また大坪さんが見えたけん、金光様の話を。あそこの婆しゃまっちゅうとが、えらい熱心なお方でした。それで、若い者達に、その話してくれと言われるので、もう一生懸命お話をしたが、言うておられました。夜中の11時半か、12時頃(まい?)頃になると、表がいわば、あの、この寒中なんかは(感じて?)ますもんね。私は(ひより?)袋を履いて行きよったです。
それでも、その( )、そのカランコロン、カランコロン、この下駄の音がする。ほら、もう大坪さんが久留米参りしござるばいち。夜なべどんしよると、もう一時ばっかりすると、もう帰りよりなさる。ほら、もう大坪さんが帰りござるばいと言われるくらいに、私は久留米の教会にお参りさせてもらいました。ね。それを私が、15の年から、ちょうど兵隊検査まで、久留米の酒屋の番頭を致しました。ですから、これはもう毎日、日参をさせて頂いた。
私だけではなくて、いわば向かえの鉄工所の職人さん。それから隣の(ぶるぎ?)屋さんのお弟子さん。もう一つ道の向こうに、山浦という、八百屋さんがあった。八百屋さんの息子。それから、国竹町という所に、ヨシズカという床屋さんがあった。もう年配も私と変わらん。それで私が毎朝ずっと起こしに回る。それに、やっぱり多い時には14~15人、その町内の人達が、子供達がね、お参りを致しました。毎朝。ある寒中の寒い時でした。
私は初めてお導きをしてお参りをした、その山浦こうちゃんというとが、下駄の方が切れました。それで、私は足袋裸足になってから、私の下駄を貸しました。ちょうど、あの櫛原と、あの櫛原の教会に行くちょっと手前に秋葉神社という小さい神社があります。あそこの神社の前でした。ね。これがもう、初めてお参りをしてです。もうあげな冷たか思いをするなら、また参らんち言うちゃならんと思うてから、自分が裸足になって、その履物を履いてもろうた。ね。
けれどもね、本当に信心の真というものはね、私が福岡の吉木、吉木先生の奥城にお参りをさせて、もうその頃はもう、大変、例えば激しい修行をさせて頂いとる時でしたが。あの、洋服を夏なんか着とっても、このボタン一つを離す事を神様は許されませんでした。たまたま、うかつに、こうやってボタンが外れておりますとね、羽織を着とる、羽織のヒモがくりっとひっくり返っとるとこ頂くけん、こうやって見ると、ボタンが外れとる。
はあ、神様はこげな事ばいなと思うて。そしたら、その日に限って、優しゅう、優しゅう言うて。いつも、もう道なき道をこうやって登れと仰るんですよ。今日はその、楽な道を通らせて頂いて、一番頂上の上に行って、日陰にどん( )ならば、ね、もうとにかく、あの楽をするという心は堕落する心と仰った。ね、炎天の道を歩かせて頂くなら、暑かとこを得て歩くというような修行をさせて頂いておる時でした。
その時には、私が一番上の頂上の、松の日陰の所の小さい石があった。それにかけよと仰るからかけた。そしたら、ボタンを取れて言われたら、ボタンを取ったら上着を脱げと仰った。それから汗疹を拭けと言われるから汗も拭いた。そして、そこにかけさせて頂いたら、これからね、神が、この世にお前が出て来てから、これからの事を神が物語ると仰った。今日のこういう状態の事なんかでもちゃんと私は、その時分に聞いておりました。
えー、ここの御広前がかえって上の方のね、あの高くなって行く方がかえって下に見えるごと、る所に御広前が出けるという事も、やっぱりその通りです。私、ここのより私が、こうするしこ、まだ低いですからね向こうは。ね。その時にです、私が生まれて此の方助けられた事。ね、また様々な行いの事。良い事、悪い事、それこそどんな恥かしいような事でも、悪い事でもです。もう神様は一分一厘見逃しになっておられない事を、あの時に知りました。
その中にです、お前があの、(しょじまの西立町?)から、ね、十人も十何人もの青年達を導いてお参りをして。あの(しも?)の朝にお前があの下駄を貸してやって、お前が裸足になった事を神が覚えておると言うて下さった。有り難い事はしとかなきゃいけませんです。神様が見てお出でです。本当に神様が聞いてお出でです。ね。というようにです、久留米におります時、まだ、言うなら15から20、足掛け7年間、私は毎日日参のおかげを頂いた。今日、ここでお祭りを仕えておられる、あの、祓い詞を奏上されました旗崎の先生御夫婦が、ちょうど、櫛原の教会で御夫婦で御修行のあっておる時分でございました。
今でも先生が、昔の事を言うて、アンタがあの前掛け嵌めちから参って来よったもんのち言うてから、覚えておられます。そういうようなです、中に久留米の信心をあの当時、本気で頂いておったら、まだ、初代石橋松次郎先生がお出での時ですから、どんなおかげをほんに頂いておっただろうかと思いますけれども。不思議にこの石橋先生は御理解というものを、あまり残しておられない。もう、ただ、信心辛抱さえをしとれば、物事整わん事はないぞと、四神様からお受けになられた御教え。その一言を芯にしての御信心であったように思われるのです。
おかげは、もうそれは大変なものでした。ね。当時の、例えば春秋の御大祭に、やはり千人参りという事が言われておりました。実際は、二千人からお参り、あの、記念祭なんかの時にはお参りしておるという事でございます。ね。そういう、例えば飛ぶ鳥を落すほどしのごひれいが、久留米の御広前に輝いた。ね、その時代に私は御縁を頂いておるのでございます。ね。ただ、御教えを、その頂いておる、お月次祭の時には御説教もなさりよりましたけれども、耳に残ってない。
ね、それは大変残念な事ですけれども、ただ、信心辛抱という、これだけは私の信心の芯の中に。私は、どうか知らんけれども、辛抱が足りない。合楽の信心の言うならば、まあ理想とでも申しましょうか。ね、梅の香を桜に持たせ、しだれ柳に咲かせたい。ね。あんまり欲張ったようですけれどもです。梅の香を、ね、桜に持たせ。ね、しだれ柳にその桜を咲かせたい。そういう、私は願いを持っております。性格的に、やはり何とはなしに桜の花的なものを、これは自分の持ち前ですから。ね。ですから、辛抱が足りない。
それから、ね、梅の花の信心辛抱が足りない。自分で、例えば欠けておる事を知っておる事は非常にいいです。はあ、自分がもうへこたれた時、はあ、自分はこれが欠けておるんだから、ここを人一倍修行させてもらわなければならんと言うて、様々な事にも辛抱させてもらう。例えば、もうここに言わなければおられないといったような時でも、ジッと金光様を唱えて辛抱する事が出けるようなおかげを頂いたら、辛抱する事の徳とでも申しましょうか。辛抱する事が有り難いとだんだん分かって来た。ね。
それが、例えば久留米の初代がです。ね、信心辛抱と仰るけども、亡くなられるまで信心辛抱しておられたと言うなら、私は値打ちはないと思う。初めの間は、それは、それこそ泣くほど辛いような事もおありになったであろうと思う。ね、けれども四神様から、石橋さん信心辛抱ぞと言うておられる事を心の守りにしておられますから、辛抱し抜かれてお出でられる内にです。ね、辛抱をする事が無くなるほどしの辛抱の徳をお受けになっておられたと、私は思います。
ね、だから、それがね、(こうした?)歯食いしばって辛抱しておりますけれども、だんだん辛抱を重ねて行きよりますと、それが徳になる。徳になったら、その事が有り難いという事。言やあ、馬鹿と阿呆でも同じ事。ね、この頃は、もう馬鹿にしとる、阿呆にしとる( )よう分かるです。この頃、御本部からの帰りに、私が今日はあの、グリン車の一番良い車で、私と重雄さんと二人はあの、それで行きました。そして、もうがら空きです。
それでいっちょ、二つ、三つ向こうに他所の教会の御信者さんが乗っとる。それが、ここにいつも来る安武先生とか、佐藤先生なんかが、あの挨拶に来ました。それで、あの、合楽の大坪先生があの箱に乗ってあると言われたんでしょう。もう全然知りもせん先生方が移り変わりやって来るんです。そうして、そん時にはまたあちらから、広島で差し入れがあり、信者さん方から色んな、ぼた餅やら何やらこう持って来て、もう沢山な飲み物、食べ物がある訳ですよ。
だから、私その方達に、あの、話を聞きに来なさったのか、食べに来なさったか分からんけれども、まあ、さっさと私が出しましたんです。ほしたら、もう食べなさる、食べなさる。それで、久富先生も、あの、久富重雄さんなね、具合が悪くてちゃんと、(ああお?)寝ちゃりましたもん。そればってん、先生あの人達は食べげ来ござるとですよち言うちから。分かる、ちゃんと。ね。
先生の話も然ることながら、本当は飲み来ござると、食べに来ござる。これは、私を馬鹿にしなければ出ける事ではないですよ。ね、はあ親先生はお徳が高い、例えばそういう徳者の前で初めての人がです、飲んだり食うたり出けますか。ね、けれどもね、そういう馬鹿に、それは重雄さんならずとも、私も感じますけれども、それが心の中で嬉しいです。んー、本当に有り難いです。しかも、それが、こう出すんが、はあ、これが甘かもんが好きならぼた餅もあるばい。はあ、ウィスキーもあるよ。ほらあ、ウィスキー( )こうこうしとって、ビンまで持って行った。はっはっは。本当ですよ。ね。
だからね、本当に、もう私は馬鹿と阿呆という事も、その馬鹿にされとるけん腹が立つという事でないところを見ると、馬鹿と阿呆の言うならば徳のようなものが段々身について来ておる証拠だと思うのでございます。ね。久留米の、私が7年間もおりましたから、その間おかげを受けた事など申し上げますと沢山ありましょうけれども。ね。今日のお祝詞の中にも初めて私が、ね、合楽教会が、ね、本当に金光教合楽教会としておかげを頂いたその元は、ね、私が御商売の上にも、もういよいよ駄目になった。何をしてもいけない事になった。
親先生も頭を傾げなさる。アンタがしこ信心するってどうしてじゃろうかというぐらいになって来た。そこで親先生に、もう親先生、商売が繁昌しますようにとか。ね、ああなりますように、こうなりますようにという御願いはして下さいますな。ね、私のような者にでも、神様がかけられた願いというものがあるに違いはございません。言うなら、神願があるに違いはないのですから、その神願が成就する事の為ならば、修行もしますというようなお届けをしました。
あんた、そげな事ばっかり言うちからち、親先生が仰ったですけど、やっぱそういう願いをして下さったんでしょう。ね。それが、本当の願いなんです、本当の願いというのは。誰にでも神様の願いというのがあるです。自分の願いが成就する事を先にせずに、神様の願いが先ずは成就する事のおかげを頂くという事が有り難いのです。ね。その先に、ね、氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますからと、三代金光様は私に教えて下さった。ね。こちらが神様任せになりゃあ、神様が氏子任せになって下さる。そういう一つの現れが今日の合楽のごひれいであるとも思わせてもらいます。
この十三日会の日に、毎年ここ3年あまり、私の居室の向こうに蘇鉄園がございます。もう5年間は半分だけしか、沢山あの植わっておりますけれども、その半分はもう腐ったようになって、芽が出ませんでした。ね、それでもう、先生これは取りましょう、取りましょうと言うけれども。ね、そのまま、ま一時辛抱せんの、ま一時辛抱せんのち言うちから、やはり5年間辛抱させて、植えて。5年目の言うならば、5年の記念祭を仕えさせて頂く時にです、もう不思議にその残りの、あの腐ったような蘇鉄から、もういっぱい芽が出ました。ほれは、もう見事に出ました。
ね、それ以来、もう、この12月の報徳祭の御用の時に、6~7人の方達が一日が係りで、あの、(わらずとを?)ワラをきれいにすぐってね、もうそれこそ竹の子のように、こうやって包むわけです。それは、もう見事です。もう、かえって蘇鉄で見るよりも、(ふい)の庭の一つの風情と言うか。ね、そういう素晴らしいものを感ずるくらいに、きれいにお菓子のごとしてあります。どういう訳に、合楽の方達があの蘇鉄園を大事にするかと言うとです。はじめは、あれのお供えをなさった方達が、植木屋さん達が、ここの前にあの、大きくこう、植えようと。( )のようなところに、こう植えて下さいと言うて持って来たんです、だいたい。
けれども、これは一つ、庭師に皆は任せてあるけれども、この蘇鉄だけは私の言うように、一つ植えてくれと言うて、私の裏庭に植えさせて頂いた。というのはです、私が五つの年に疫痢を患っております。善導寺、草野の池尻病院に入院。当時、熱烈な信心を母達がしておりましたから、隣のおばと母と二人で、もうそれこそ、ずうっとこう、もうお百度を踏むようにしてお参りをさせて頂いた。ある時のお参りに、親先生が御祈念をして下さったらね、大坪さん、例えどういうような事が起こっても、驚いちゃならんばい、どういうような事が起こっても信心の緩めるような事があっちゃならんぞと、案に私の死を(ほどめかされた?)。ね。
それでも助けたいの一念がです。もう、いよいよ熱烈を極めた訳です。お参りに一生懸命打ち込んだ。おばと、二人で交代でずっとお参りをする。そういうお参りが続いた、あるお参りの時にです、また御祈念をして下さった時に、大坪さん、アンタどんが一念、神様聞いて下さったよっち。総一っちゃんな助かるばいち言って言わっしゃった。今ね、実はこの前のお参りの時にね、お願いさせてもらいよったら、蘇鉄がね、もう枯れてしまうところを頂いた。はあ、これはもう、総一っちゃんもこれは助かりきらんばいと思うてあげん言うたけれども、その枯れた蘇鉄からまた芽を吹くところを頂いた。これは、信心じゃ助かるばいち。
さあ、それから力を得て一生懸命その、元気を出した。それはもう、熱烈な信念と言うですかね、も持っておりますから。例えば、私が生まれて60日ぶりに、それこそ火の海の中にあって、もう体全身、こう火の海の中にあった時でもです。もう、隣のおばが来てから、お神酒すずを口に加えてね、口に加えてお神酒をバーンと体中に吹っかけた。もう黒( )だったそうです。これがその時の、火傷の後です。提灯をつけて、提灯の( )ぴったりついとった。だから、これは提灯の骨の後です。
そういう中に助けられ、五つの時には、そういうおかげを頂いて。ね。もうだから、あの、医者はもう何も与えてはならないと言われるのを、御神飯を一つ、糊のように焚いて食べさせた。明くる日は二つ食べさせた。その明くる日は三つ食べさせた。もう、その時間が来ると、おばの顔を見ると、こうこうやって拝みよったそうです私が、食べられると思うてから。んー。そのようにして、薄紙を剥ぐようにどころではない、それこそゴロゴロおかげを頂いて助かっております。その事が、今日のお祝詞の中にも、二度命を頂いてという事に御祝詞の言葉になっております。
ね、そういう、いわば大恩のある善導寺なんです、私にとっては。ね。本当に初代の荒巻先生がおられなかったら、それこそ合楽はなかったかも知れません。ね。そういうおかげを頂いておる。孫子の末まで、ね、私のあの、部屋の向こうへ行ってあの蘇鉄を見たら、ね、先代がここに蘇鉄を植えられたのは、もう孫子の末まで。ね、この腐った言うならば蘇鉄から芽を吹いて、こういう立派な庭、蘇鉄園が出けておるという事は。ね、初代のお祈りのお徳、お祈りのおかげで初代が助かったんだという事を思うたり、見たりしたら。ね、信心も落そうと思うても落す事は出来まいと思うての心が、あそこに蘇鉄園を作ったのでございます。ね。
三井教会の先生。それから、久留米の石橋松次郎先生。福岡の吉木先生。そして、小倉の桂松平先生。これを、私は、ね。桂松平先生他、初人の、ね、もろもろの神としての御祝詞の中に申し上げました。これは、手続きではございませんけれども、甘木の初代。亡くなられる寸前、亡くなられて前後三回にわたって、私の夢枕に立たれたり、私が蚊屋の中に入って休んでおる時に、蚊屋を潜って、この寝巻き、浴衣がけで入って見える方が。まあ、お夢と言いながらも、もう、まあ、まざまざ、本当の事のようであるんです。
ほれで、あの、パッと気がついたら、甘木の親先生です。で、枕元に座られてから、もうそれこそ懇々と、天地の道理と同時に、陰陽の道理を、もう説いて下さいました。もう、男女観の事でも、天と地の事も。ね、もうこんなに細かい御教えがあるだろうかというように説いて下さった。つい先日ここで、甘木で何十年、70年祭か何かがありました中の日でしたか。あの、そん時には、あの、普通の見事なお着物と袴、袴羽織でね。奉仕着じゃないけれども、着てからお見えられて、いわゆる、この度の合楽示現活動へ、に御参画を頂いておる事に対する色んな御注意やら、またヒントやらを与えて下さいました。
今、合楽で言われておるところの、合楽示現活動という事は、ね、それこそ、教祖、神様はもちろんの事、天地金乃神様の本当の神願。神様の願いである。はあ。それは、どういう事かと言うとです。神も助かり、氏子も立ち行くというところのおかげなのであります。ね。神様が助かって下さる。それは、何々様を拝んで命を助けてもらったとか。色々な、様々な信心がありますけれども、人間が助かるという事だけです。神が助かるという事なんかを説いてあるのはありません。ね。いわゆる、神も助かり、氏子も立ち行くという事が合楽という事なのであります。
言うならば、天と地が一つになって拝み合えれるほどしの事。神様、貴方のおかげで。神様もまた、お前達のおかげでと拝み合えれる世界なのであります。私共がただ拝むだけのものではなくて。ね、拝み、拝まれる、私共と神様との仲にです。そういう世界が顕現される。そういう世界が示現されて参ります時にです。ね、そういう働きを私に打ち明けて下さり、私にその事を、ね、言うて下さるようになって、まだ半年でございますけれども。なるほど、示現活動、呼んでそれは字のごとしでございます。示し現すと書いてありますけれども。本当の意味は、神仏が不思議な働きを示し、現す事だと、辞典にはあります。
ね、だから、人間がいくら頑張ったっちゃ駄目なんですよ、実際は。神様が先に立って、おかげを下さるといったような働きになりませんとね。ね。ちょうど半年の間に、言うならば合楽で日々のお取次ぎのお働きの中にです。ね、これを奇跡と言わなければおられないというほどしの、不思議なおかげが立ち始めました。ね。もう、それは本当に不思議な不思議な働きであります。ね、そういう働きをです、私共が受けて。神様のいかに切実な願いを、この合楽示現活動にかけておられるかという事を、私共が思わせて頂く時に、本気で私共がおかげを頂いておる事実を。ね、薬飲む訳じゃないけれども、効きもせんとに効くごというような話、いらんです。ね。
本当に、私がおかげを頂いておるその事実を、人にも伝えて行く。しかも、もう、ね、もうぐずぐずしちゃおられないというようなものを、最近感じます。昨日、一昨日、会合があります時に、親先生今、合楽からカセットが21台、毎日あの、こうして先生の朝晩の御理解を頂いております。あれは( )はいたしませんから、朝の御理解。または、色んな会合の時のお話を全部テープに入れております........(B面へ続く).........その21台のカセットが、もう大活躍を致しております。
そのカセットを持っておられる方達がです、例えば五人の方にそのお話を聞いてもらわれる事になりますと、20台にいたしましても、50、百名の人に示現活動が出けておるという事になります。本当に便利な物が出けたもんだなと思いますね。ね、これが、百台になってご覧なさいませ。ね。それこそ、沢山な人に示現活動が出ける。福岡の池田さんとか、川上さんなんか、毎日お参りになる時に、一生懸命隣の方にお話をなさる。隣の人は、話を聞かんような場合であっても、その隣近所の人達が( )耳を傾けて聞くと言うんです。
ほお、合楽っちゃそげな所ですかと言うて、その皆がたまがられるそうです。もちろん、自分自身が不思議な不思議なおかげを頂いておる体験者であるからなのです。そして、毎日頂く御教えが、有り難うしてたまらんから、その有り難うしてたまらんものを、溢れるようにして人に聞いてもらっておられるからであります。ね。先ずは自分の助かっておるという事をです、一つ本気で気付かなければいけません。
今日は、えー、報徳祭でございますから。ね、私の頂いておる先覚の御信心を、いわば聞いて頂きました。そして、その聞いて頂いたそのお話の中に、そういう、ただ先生方を称え申し上げる。ああいう、こういう尊い修行をなさったという事だけではなくて、それを私が曲りなりにも頂いて。そして、今日かくおかげを受けて。しかも、それが合楽示現活動というところにまで、運びが運びになっておるという事の事実をです。ね、私はお徳に報いる最高の御礼だ。または、お喜びを頂く、頂けれる事だと確信を持って、今日のお話を聞いて頂きました。
先生、おかげでかく、今、合楽でおかげを頂いております。しかもです、この示現活動を始るいなや、それこそ、ね、もうそれこそ(燎原?)の火のごとく広がって行く有様をです。ね、(諸学?)先覚の先生方も、または二代金光様も、三代金光様も。ね、お喜び下さってある事を思います。これが、中途半端に挫ける事なく、これがいよいよです、本当に全教に、いや全世界に広がって行くようなおかげを頂くという事が、桂先生の大願であり、または私共の願いでなからなければならないと思うのでございます。
ね、それには先ず、おかげを頂かなければなりません。昨日は、敬親、あー、富久信の発会式が前夜祭の終わった後に開かれました。新館で私はまだ色々と用がありましたから、しばらく出席させてもろうて、一口お話を聞いて頂いたんですけれども。ね、言うならば合楽でお商売をなさっておる方達の集いであります。言うなら、合楽商人の集いであります。ですから、合楽商人の根性とでも申しましょうか。そのところをです、私は聞いて頂いたんですけれども。先ず、何と言うてもおかげを受けなければいけない。
ね、今月からです、ね、売上の上に合楽、えー、富久信会に参加させて頂いたら。ね、例え少しでも売上が増した、事業が好転して来た、借金払いがいつもより沢山出けたというようなおかげに現れて来なければいけない。為には、こういう信心をして下さいよと言うて、まあお話をした事でございます。富久信会というのは、私は富久信会というのは、福の神の会と頂いたんですけども、あんまりこう、がめついごたる感じがしますからね。あの、富久信会という事に致しました。ふは富、くは栄える、しんは信心の信。富久信会でございます。
会長が佐田京三さん、副会長が高橋さん。もう本当に、信心を元にして現在、大繁盛のおかげを頂いておられる方達ばかりでございます。ね、そういう例えば先輩の方達の商売、信心による商売というものをです。ね、身につけておい出られるという事は、どういう事かと言うと。ね、お互いが、もう大黒様がここで奉祭されるようになりまして、えー、178体です。おそらく、すぐに百体になるでしょう。そういう、言うならば大黒様もね、合楽示現活動の、言うならば先兵として、( )かっておられるような感じが致します。
どうですか皆さん、大黒様、ちった効き目がこの頃、効かんごとならっしゃったと違うですか。この頃、そういうお届けがあるんです。はじめは、とてもよう効きござったばってん、この頃効かんごとなっとる。はっは。それで、私が申しました。先日は熊谷さんがお届けされました。もう本当に、お写真を拝ませてもらうところには、お茶をお供えさせてもらう。大黒様をお祭りしとっ所には、親先生がお水を沢山召し上がるからと言うて、氷水をお供えさせてもらう。けれども親先生、この頃ね、その大黒様の表情が変わって来るち。
こちらの心の状態がいい時にはニコニコしてござる。あの大黒様がいつもニコニコしてござる( )大黒様じゃけん、もう聞いちゃござらん証拠ですよ。ある時には難しい顔してござる。ある時には喜びござる。ね、ある時には、ああこりゃ馬鹿たれじゃあるち言うて笑いござる。というような風にです、拝めれるようにならなければ、私は本当に生きた大黒様じゃないと思うです。ね、親先生がそうでしょうが。ね、御結界に座ってござる親先生がいつもニコニコ( )ないでしょうが。ね。
何を腹けえちござるじゃろうかちゅうごたる顔の時もある時には、自分の心を叩いてみるがいいです。なるほど、親先生が物も言いなさらんはずだ。私は御届けをされても、その、もうそんくらいな事も分からんかちゅうごたる時には、私はこっちの方は向かん、神様の方ば見とる、こうして。はっは。ね、大黒様でもそうです。ね、いつもこっち向いてござるとじゃない、横向いてござるごたる感じの時があるようなね、私はそういう具合に交流しなければ、大黒様の言うならば御利益はありません。ね。
そこで皆がです、富久信会、富久信会と言うから、富久信会に参加したら、すぐ商売が繁昌するじゃろといったような甘い考えではなくて。言うならば、打出の小槌だけに身を( )じゃなくて、ね、担いでござるところの、あの大きな袋が大事な事なんです。私は先日お知らせを頂きましたが、あれはどういう事かと言うと。ね。あれは、苦労の袋だそうです。難儀を担いでござるという事だそうです。お互いが、難儀から開放されたい、開放されたいと言うて信心しよるというな事では駄目だと。現在頂いておる、その苦労が、それを修行という事で頂き、それが気やあすう、見やすう持てるようなおかげを頂いた時に、初めてこの打出の小槌が効果を発して来る時であります。
ね、袋は持った事なか、大黒様のこればっか打ち振るといったような事ではいけないのです。ね。私は夕べ、皆さんに申しました。私はあの、ほていさんがね、こうやって内輪ば持ってござるとは、あれはどういう意味か分かるかて。皆さん御承知でしょう。ね、ほていさん、( )腹出してから内輪を持って、袋ばこう置いてござるでしょう。ね。ね、あれはね、もうバタバタせんで済むようなおかげという事なんです。左の方に内輪を持ったら、もうバタバタせんでん、ね、右の内輪じゃこうこうやって扇ぐでしょう。で、左内輪ちゅうのは、もうそげんバタバタ扇がれん。ああ、左効きの人が違うばってんね。
ね、言うならば、ね、人間がもうバタバタせんで済んで、済むような結構な身分になった時の姿であります。ね、そこでです、んならば、あの、14の日に、日田の支部の共励会に年末の時には、必ず私が参ります。それで、霊祭などもございましたから、あの、参りましたが。ね、あちらのお神様の上に、もうそれこそ見事な、綾部さんこげな素晴らしいお神様ば拝むならば、年にいつも神様の前に行って拝もうごたろうのというぐらいに、素晴らしいお神様が奉祭してございます。そして、こちらの所には、大黒様の軸がかかって。そして私が(さん)を書いておる、福神をこの家の内に奉りなば、家に宝の尽くる事なしという唄が、さんに書いてあります。
その大黒様を見るとです。ね、打ちでの小槌も持ってござらなければ、袋も担いでござらん。(奉仕の玉?)をこう頂いて、こう座禅を組んだような形でおられる、珍しい大黒様です。ね、これは、一切を成就された大黒様のお姿です。言うなら、バタバタせんで済むようになられた大黒様です。だから、そういうおかげをお互いが目指さなければなりませんけれども。ね、それは、なら、ちゃんと、ジーッとしとるというような事は極楽行きですから。それは、もう飽いて来ますよ。ね。
ね、だから、もう何もせんで済むようになった。ね。そして、もうお金はある、暇はある。本気で合楽示現活動にでもカセット下げて歩こうというぐらいにですね、ならせて頂いた時が、お互いの言うならば大黒天の徳分の成就した時ではなかろうかと思います。ね。バタバタし、だから、神様のお喜び頂けれる事にです、バタバタするという事が合楽示現活動の内容なのでございます。ね。
昨日、ある方が、信心のない主人が勤めに出ておられる。定年になったならば、何処どこに、貴方も勤めなさったら良かろうとある人が言うたら、そのお父さんが言われた。冗談のごと、私は定年になったなら、合楽にずうっとお参りせんならんけん、そげな事はせんち、て言わっしゃった。それを聞いておった奥さんが、もう側で大変喜んだ。はあ、家の親父が、親父じゃなかばってんね、お父さんがね。はっは、その親父なんてん言いなさる方じゃなかもん。はっはは。
お父さんがね、あの、もう金光様の事は、あの、信心な、もうせんかと思いよったら、定年になったら合楽にずうっとお参りをすると言うて、申しましたと言うて、喜びの御届けがありましたけれども。ね、もう仕事が無くなったから、ね、あの、お金が出けたから、信心しようと思うておる人達なんかで、本当な信心の出けるはずは絶対ないです。まあだ袋を担いでござる時、まだ難儀がいっぱい、時間もない、金もないけれども、どうかしてお初穂を( )させてもらい、どうかして時間を練り出させてもろうてお参りさせて頂くというような人達が、言うなら完璧な、完璧と言うか、ね、成就した言うんらばおかげを頂いてから、初めて本当のお役に立つ事が出来るのですよ。
ね、ですから、本当な事はです、言うなら、今皆さんがね、本気での修行をさせて頂かなければ、いつするか。ね、本気で一つ信心をね、いわゆる、おかげも頂かなならんけれども、信心を求めて、信心をさせて頂く決心をしなければいけないと思います。ね。もうね、信心を一生懸命せんとね、おかげをおかげと思わんです、不思議に。もう信心とはね、だから、私は今まで気がつかなかったところにです、おかげと感じれれるようになる事だと思います。
お願いをする、おかげを頂く。それは氷山の一角なのです。まだまだ、奥の方( )の方が沢山あるです。信心を深く、広くさせてもらいよると、あれもおかげであった、これもおかげであったと、今まで気も付かなかったところに、沢山な根があるです。この頃から、そのおかげを10年ぶりに気がついた人が今日は参って来ております。久富先生の次男坊ですけれどもね。もう、この人は子供の時には、もうこれは金光様の信心にしたなら良かろうちゅうごと熱心でしたよ。ほれは、もう子供ながらの御心眼を頂きよったです。
ところが、ただ長ずるに従ってですたい、もうそれこそ( )息子じゃなかばってんから、青うなって行っとる。ね、そういう時代が続いた。そして、嫁子をもろうたら、その嫁子がなかなか(めいしん)で、その、今度は嫁の、私は嫁子のおかげじゃという訳じゃないけれどもです、やっぱ神様のおかげでしょうけれども。いわば、立ち直る事が出けて、まじめに仕事をするようになったら、腎臓という病気を患うた。ね。そん時に医者が、もう二度とこの病室から出られんかも知れんというほどしに、難しゅう医大で言われた。
親、お父さんの信心でいわば助かった。お母さんの信心でおかげで助かった。ね。そん時にはです、そん時には、ね、医者もやっぱ見違えがあるという風にしか思わなかった。それから5年経ち、10年経ちする内に目が見えなくなって来た。ね、おかげで手術をしたけれども、また見えんごとなった。今度、言うならば、10年ぶりにその病院にやらせて頂いてです。ね、もう退屈だからラジオを聞きたいて言うんで、ラジオ持って来てくれち( )お父さんが、カセットを持って行ったげな。
ラジオち言うたら、カセットどん持って来てち言うちから、しょうなかけん、まあ退屈まぎれに聞きよったら、親先生の御理解が次々と出て来るから。ね、もうそれこそ、もう、もうそれこそ、もうむさぶるように、それを繰り返し、繰り返し頂きましたと言うております。そして、10年前にああいう大病をした時にです、命を頂いておったおかげで、目が見えるの見えないのと言うておるけれども、あの時にもし命を頂いてなかったら、今日の私はなかったと思いますと。
ね。御理解の中に、ね、そこのところが出て来た。ね、先日ここで25日の研修会をしよっ時に、もう一生懸命話しよる、もう恥も(外聞)もない、皆のおる前で、ね、親先生、今度ばかりは神様のおかげが十年ぶりにようやく分かりましたと言うて、お礼を申しております。ね。だから、望さんて言いますから、望さん、これからが本当な信心が出けるとねと言うて、まあ、二人で喜び合わせて頂いた事でございますけれども。信心を、それをね、深く広く頂かないと、頂いておるおかげも、おかげと思わんのです。
極楽のおかげを頂いておっても、極楽と思わん。いつも、頂き足らんごと思うとるから、示現活動なんかお呼びもつかんという事になって来るのです。ね。本当に奇跡的なおかげを頂く事も有り難いけれども。ね、私は頂いておるおかげ。現在、本当に頂いておるおかげをおかげと気付かせて頂く事の為に、信心のけいこを本気でさせて頂かなければならんと思うのでございます。おかげを頂きまして、有り難うございました。
末永信太郎 ( 9月2日 )